色覚問題の当事者とは、色覚検査で表1は読めたが表5は読みづらいといった結果を持つ者であるという、単にそれのみではないことになる。そうではなく、色覚問題の当事者とは、進学・職業・結婚といった人生の重大事について選択権を制限されたにもかかわらず、自分の状況や境遇について説明したり態度を表明したりするための言葉を失効させられた人のことである。自己定義の喪失を余儀なくされた人のことである。そのようにして沈黙を強いられ、その沈黙の理由すら説明できなくされた人のことである。
もしも傾聴が、ただ相手の言うことにそのままついてゆく(listening to)という語義で共感的受容を指すなら、語る人がすでにいることを論理的に前提することになる。しかし、「負け犬の社会学」が明らかにしてきたのは、自己の経験について語るための言葉を失効させられ、支配的な表象や大勢を占める物語によって塗りつぶされている人々の存在であろう。
だとしたら、傾聴とは、まだない声に耳を澄ませること(listening for)でなくてはなるまい。自らの耳を解体する準備がある態度、と言ってもよい。