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色覚差別と語りづらさの社会学

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本・単著: 『色覚差別と語りづらさの社会学: エピファニーと声と耳』

■ 書誌情報

 徳川直人、2016、『色覚差別と語りづらさの社会学:エピファニーと声と耳』、生活書院

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  『色覚差別と語りづらさの社会学』表紙


概要

 日本は、諸国の例にならいつつもきわめて端的なかたちで色覚検査を制度化し、端緒的には大正期から、本格的には戦後直後から、学校教育とそれとを結合させ、進学や進路を制限する指導をおこなってきたという歴史を持つ。途中から、教育上の配慮のためであるとの趣旨に変更されたが、実際上、そのような配慮が系統的になされた痕跡は見当たりにくく、むしろ、書類に「異常」の旨が記載されて進学や就職における制限の基礎資料になってきた。

 ようやく1990年代になって、そのような進路制限は差別であるとの批判がなされるようになり、制限の多くが撤廃され、その根拠となっていた色覚検査も2000年代初頭には学校での検査の必須事項から外れることとなった。
 しかし、その色覚差別批判は、従来の検査が該当者を非常に広く篩い分けていたことから、また、健常ではないが病気でも障害でもないという曖昧な状況から、色覚特性は「大した問題ではない」「障害ではない」等と強調しなければならなかった。その訴えによって理不尽な制限の撤廃を達成しえた点には、歴史的意義を認めなければならない。しかし他方、それがともすれば色覚特性の否認として処理され、本来それにとどまるはずのない色覚検査撤廃論に議論が集中してしまったため、あるいは諸種の制限の撤廃も理解の高まりによってというよりも行政的な指導によってなされたために、社会環境中の配色の改善、多様性の尊重、当事者本意の支援や共同といった方向性が積極的に打ち出されたわけではなかったという課題を今日に残した。
 これに対して本書は、これを、なんでもない色覚特性に付けられた問題的な名前の問題ではなく、物質文化と社会的習慣(実践)の問題として捉え直したうえで、情報伝達の原則とユニバーサルデザイン、当事者性、経験について語る声とそれを聞く耳の関係などについて考察し、今日的にも存続している「危険」のレトリック、「適性」のレトリックの歴史的起源とその「ほころび」にも論及して、その文化と習慣を見直そうとしたものである。

 さらに、昨今、学校における色覚検査が必須ではなくなってから10年が経過し、その世代が進学や就職にさしかかってきている。これを受け、当事者たちが自分の特性を把握することができないまま社会に投げ出されるのは問題だという指摘がなされてきており、やはり検査を再開するべきであるという提言も出されてきている。しかし、かつての検査や進路指導がなにゆえに差別だと批判されたのか、その教訓は何だったのか、検討を踏まえていない例が見られる。
 また、カラーユニバーサルデザインやカラーバリアフリーが提唱されてもいるが、それに関する報道などにおいては、概念的な混乱が見られ、そのことから、配色だけに注意が向けられ、「色分けによるメッセージ伝達」という既存の習慣がいっそう固定化されかねない状況にある。また、当事者が想像もできない異世界の住人として「他者化」され、その裏返しで、読み手や聞き手が問題外に置かれて「疎外」されるという状況も発生している。
 これに対して本書は、検査の有無ではなくてその趣旨と方法、特定部類の人のための工夫ではなくて情報伝達の一般原則の問題、当事者がいかに語るべきかだけではなく公衆がいかにそれを聞きうるかという生活文化の問題について触れている。

 なお、これは何百万という人々の人生や生活を大きく左右した問題だったにもかかわらず、少なくとも2015年6月の入稿時点において、これを社会科学の観点から分析・批評した日本語の専門書を私は見いだし得ていない。

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本書の理論的見取り図

    理論的見取り図

 中央の「言語-経験」の呼応関係がキーとなっている。すなわち、言葉が経験をつくり、経験が言葉を通用させるというループである。
 しかし、歴史や比較という観点からすれば、その呼応関係は決して自明ではない。歴史的に特殊であり、社会的にも特殊である。
 そのことから、その呼応関係を成立させている「社会構造」の問題に下降せざるをえない。すなわち、カラフル社会の技術・習慣・実践と、それによる力の配分と発効(眼科学的イデオロギーの成立)である。
 当事者の抱えている「語りづらさ」は、この社会構造のなかでの言語の剥奪であると規定することができる。
 その語りづらさゆえ、当事者は苦吟せざるをえないのだが、その苦吟、すなわち本書にいう「推敲」は、上のごとき社会構造・言語実践の中における自己の経験の再叙述=「再帰」の営みであると言い直すことができる。
 だがもうひとつ、その声を「誰がいかにして聞くのか」という問題が浮上する。そのことについて、本書では、G.H.Meadの身振り会話論とA.W.Frankにおける「声と耳の応答」(と両者を読み取って)という観点から考察している。既にある声に耳を傾ける傾聴というよりも、まだない声に耳を澄ませる傾聴の問題である。
 この観点からすれば、社会学の任務は、その媒介となることである(社会学の宛先問題)。
 このことから、経験的分析の方針も「障害学に示唆された相互作用論」となる。すなわち、単に障害の現象を相互行為論的に分析するのみならず、それに対する反作用の反省的な記述という実践性が、そこに生じる。
 そのようにして、本書は、著者がだんだん社会学者に、そしてだんだん当人なりの当事者に「なっていく」論理のプロセスと重ね合わせられている。

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