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ともに創りあげる社会

……です。

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講演とセミナー 「ともに創りあげる社会をめざして:今日からできること」

■ 概要

 釧路市教育委員会からの依頼。釧路市では男女平等参画をめざした条例づくりを進めており、その一環。論題もその事情による。釧路時代以来のご縁で、私の勉強もかねておつきあいが続いている。
 私は出産・育児を直前にしている立場から、男性にとっての家事・育児を、固定的な「性別役割分業」を前提とした「家事参加」「育児支援」にせず、人としての当然の営みとして位置づける必要性について考えてみたかった。


抜粋

 *録音記録のような「そのまま」ではありません。

 ……[略]……世の中を見渡してみると、気づいてみると労働者の3割が非正規雇用、不況や派遣切りで今年度末も自殺の心配をしなくてはいけない、そんな現実は「男女平等」以前じゃないか、むしろ男女平等なんて何を脳天気なことを言っているんだと言われてしまいそうな雰囲気すら感じられてしまいます。しかし、そうではなく、これを私たちの皆についての権利の問題としてとらえなおしたい。

 

 ……[略]……

 そのおり、男と家庭という問題が、必ず課題になってくると思います。というのも、雇用機会均等といい男女共同参画といっても、それはいわば労働力調節弁としての女性労働力を調達しやすくしてきただけのことで、男なみ労働条件の改善はなされないまま、いやむしろ、いっそうの規制緩和と流動化がすすめられてきた。男にとってもそれが実はきついつらい労働条件の持続でもある。このままだと、女性がそれについてこれないからという理由で実態としての女性差別が持続する、仕事か家庭かという二者択一を迫られる状況に変化が起こらない、あるいは両性の結合そのものが失われつつある。

 セミナーの様子

 男の働き方を変えなければ、130%働くか切り捨てられるしかないという、この構造は揺るがない。ワークライフバランスが、ちょっと前は働く女性のための、というふれこみで言われたのですが、いまは男の問題として言われ始めた。そこに今日の課題があるように思われるのです。つまり、男と家庭という問題は、働く者の権利をもういちど確認し、仕事とはどういうことか、仕事をわかちあう機会をどうやって作ってゆくか、ひいては生きるとはどういうことかと、考えるということになるのだと思います。

 ……[略]……

 分業とよく言います。社会は分業でなりたっていると。それはそのとおりかもしれないけれども、ときどき、男女も分業なんだから、ということで、片務的な役割がおしつけられたりしてハラがたったりします。

 が、それは分業という言葉の誤解・誤用であることが多いのです。動物社会と人間社会のどこがちがうかといえば、その分業がいちばんちがう。動物や昆虫にも分業する例はあるのですが、人間の場合、その分業が並大抵じゃない。農業と工業といった社会的分業もそうですし、工場内での作業分担、つまり作業場内分業も同様です。人間は高度に発達した分業体系を持つ。これは社会理論の定説です。

 が、そのときに注意しなければいけないことがあります。人間の分業と、動物や昆虫の分業とのいちばん大きなちがいはどこにあるかと考えた場合、それは並大抵じゃないという程度の問題なのではなくて、次のふたつにあるのです。つまり、1)原理上、交代可能性がある。役割を交換することができる。もうひとつは、2)想像上の役割交換です。分業している限り、生活に必要な資材は交換して手に入れる必要がありますが、そのおり、たんに財を交換するだけではなく、想像のうえで役割を交換する。言うなれば共感やコミュニケーションという営みです。

 まず最初の交代可能性、これは現実に可能かどうかということもあるのですが、原理上の問題です。身分制や奴隷制も、言葉のものすごく広い意味では分業と言えるかもしれませんが、近代的基準で見たときこれを分業と呼ぶ人はいない。そもそも交代できない仕組みだからです。ハチやアリの社会と同じです。

 さて、性別役割分業はどうかというと、分娩と授乳の必要のみをとらえて、だから育児のことはお母さん、家庭のことは妻任せ、こう役割が固定されてしまって、それが社会の慣習となっている社会は、これを交代可能性という観点から分析しなければなりません。日本の場合、その可能性が極端に低いと言わざるを得ない。

 夫が妻に「手伝うよ」。それが気遣いのつもりになってしまう。その表現の女性から見た場合の腹立たしさは、それが役割の固定を前提とし、暗に「本来は自分の仕事じゃないよ」という理屈を伴ってしまうからです(男性の意図はともかく)。また、男性にとっても、「家事参加」とか「育児参加」といった表現のもどかしさは、どうでしょうか。出産や育児は、まるで私の人生ではないかのようです。そして仕事のみに固定される。病気になっても休めない。おかあさんが病気になっても家事が交代できないのと同じように、おとうさんが仕事がつらくても休めない。育児休業の制度はあるけど使えない。

 近年、家庭での男女平等観が強まってきていると言います。けれど、男が仕事で女が家事で、それで負担が同じくらいなら「平等」「共同参画」といった、一次元化された存在どうしの平等観になってしまっていないだろうか。

 釧路の夕焼け

 こう考えてくると、分業論が示唆するのは、役割の固定ではなく、むしろ人間存在の多元性なのです。多元的でありうる権利というものを考えてもよいかもしれない。

 ……[後略]……

 [中盤は、男性に時間と生活技法を提供しないままの「啓蒙・普及」(あるいはジェンダー論の主張)が、かえってあまのじゃくな反応を招いている危険について。終盤は、私がとりくんでいる生活改善手帖、せんだい父子手帳などの事例の紹介であった。休憩時間を挟んだ後は、徳川式グループワークによって、①職場でできること、②誰にどんな手帖を持たせるか、③父子手帳を作るとしたら、どんな情報を載せるか、なにをチェック項目とするか、作業をおこなって発表した。この会議方式はある種のアクションリサーチを参考にしたものだが、会議の仕方を変えることもまた今日からできることの一つであろう、と結んだ。]

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雑記

 珍しく1月に降った大雪のため市内はいたるところに雪がつみあげられており、歩道はつるつるの氷盤と化していた。救急車出動も多いとか。

 ますますシャッター街化してゆく中心街。行くたびに思い出の店が空きビルとなっている。しかしちょうどアイスホッケーのインターハイが開催されていて、宿はにぎわっていた。

 真横に見ることのできる夕焼けと、キンと澄んだ冷気が、懐かしい。

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