この論文タイトルからは、ミードの議論の社会学理論一般に対する含意がとりだされる論文を期待されるかもしれません。確かにその側面もあるのですが、しかし、この論文がそれ以上に試みているのは従来のミードの全体像のとりかえです。
端的に言って、私はミードを、日本のシンボリック相互行為論が提示してきた「人間の主体性」vs.「社会的被規定性」といった議論に決着をつけるための哲学的解明とは読んでいません。そうではなく、ミードの議論は当時の社会進化論に対する批判体系にほかならない、と読んだのがこの論文です。
とはいえ、その「社会進化論」は、自由放任の(今日風に言うなら新自由主義のイデオロギーとしての優勝劣敗原理の)社会進化論にとどまりません。それも含むのですが、それ以上にむしろ、「改革ダーウィニズム」に対する批判の体系だ、と考えています。
個体と環境との関係論、時間論などは、そのための基礎作業という性格を帯びています。
■ 「科学の方法」の読みかえ
改革のためには科学の力が必要だ。--当時、そのいう「科学」は、知の位階制における特権者をさして言うのが普通でした。いや、「科学」の内部においてさえ、今日のランキング合戦さながらの「どっちが上」競争がおこなわれていたのです。そんなくらいですから、市民が自分の頭で考えるなどということは無益な誤りをもたらすだけだとされました。「頭脳」たる科学者の「手足」としての活動がせいぜいのところ、だったのです。
これを変えるためには「科学」の原理をとりかえなければなりません。当時すでに「ビッグサイエンス」化しようとしていた科学の営みを、いわば等身大に読み直す試み。それがミードの「科学の方法」論であり「コミュニケーション」論である。--そう位置づけたところで、この論文は終わっています。それは後の課題となりました。
■ 時間と自己
そのようなわけですので、時間論はただちに経験的な分析対象というわけではないのですが、しかし、自己というものについて考えてみると、時間軸が欠かせないことがわかります。
第一に、自分とは何か、考えてみると、これまでの来し方、これからの行く末、そのあいだの今、自分がなにをどうしてきたか、なにをどうしてゆくか、どこからきてどこへいこうとしているのか、といったことが、問われざるをえません。
第二に、そのことからの延長で自己のアイデンティティとか自己変容といったことを考えてみても、自己が同一の自己であるとは何をもって(いつの自分といつの自分を比較して)そう言っているのか、自己変容と言っても変わるとは何がどう変わるのか、まさか完全に変わってしまったらそれは別人ですので、なんらかの共通性を連続して持っていることが大前提となったうえでの変容だと思いますが、では変わった部分と変わらぬ部分とはどのようにして見分けたらよいのか。
■ パースペクティブの交差としての自己
いま私が誰かと「相互行為」するとき(ありていにいえば語り合うとき)、それは異なる歴史なり物語のなかで特定の文脈を持つ現在同士が出会う、ということになります。これをこの論文ではパースペクティブの交差と呼んでいます。
この出会いの意味は何なのか。それは、相手の視点を経由した自分への「たちもどり」なしにはありえない。この遡及と回帰の営みこそ、ミードの言う「リフレクション(再帰)」だ、とこの論文は考えています。
--いずれも、『G・H・ミードの社会理論』まで持ち越すことになる着想です。
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