徳川直人、2001、「低投入型放牧酪農の経営と暮らし(9)--マイペース酪農交流会の意味世界とその特質--」、『畜産の研究』第55巻第5号: 556-560頁。
徳川直人、2001、「低投入型放牧酪農の経営と暮らし(9)--マイペース酪農交流会の意味世界とその特質--」、『畜産の研究』第55巻第5号: 556-560頁。
草地酪農に対する再評価が進み始めた頃、「低投入型放牧酪農の経営と暮らし」シリーズの第9回として担当。『畜産の研究』誌に載ったのは、農学系の研究者たちと共同研究していた経緯に由来する。
「マイペース酪農」をどのように定義するかについては議論がある。飼養規模や草地利用など農場の条件だけ見れば、「マイペース酪農」と名乗っていなくとも類似の営農がありうるし、現にあるからだ。この論文もその一部となっているシリーズ名は、だから、「低投入型放牧酪農」である。農学的ないし農業経済学的には、それで正しかろう。しかしながら、社会学の見地からすれば、マイペース酪農と当事者たちが名乗っていることが、定義のための重要な指標となる。
私がフィールドワーク作品で「意味世界」という概念を用い始めたのは北海道の酪農研究からである。北海道の酪農は、画一的なイメージが流布しているのとは逆に、経営規模やスタイルが多様であり、つまり営農志向が分化していて、しかも、そうした分化が農家観や経営観など生活を律する論理にまで及んでいるように思われたからである。
この論文では、意味世界の概念を、「社会的に表明され共有されている意味世界」(同論文: 556頁)と限定した。すなわち、マイペース酪農交流会における語りや議論の世界のことである。
さらに、「まなざし」の概念を、これはおおざっぱに利用して、マイペース酪農交流会を、「かつてなら生産力発展、いまなら地球環境の視点から「さあ作れ」「さあ売れ」と言わんばかりの農業へのまなざし」に対抗する、「牛飼い」としての言葉をとりもどす運動」である、と特色づけた(同論文: 560頁)。
このようなつかみ方の社会学的なねらいは次のことにある。
1)意味は、なんらかの対立項との関係を考慮にいれて初めて解釈可能なものとなる。表明される理屈や意見が何との対抗関係に置かれているのか・置きうるのか、その議論的文脈を設定する必要がある。それが読むという営みである。
2)生産力発展とか地球環境といった、その時々に正当化されている観点から、特定の農業の実践を評価する。そういった社会科学の「まなざし」もまた、搾取(exploitation--一方的利用・評価)にあたりうる。もとより、草地酪農の可能性を否定しようとしているのではない。上から目線の評価よりも、酪農家たちが自らの活動のなかで見いだしていった意味にもっと敬意をはらって学ぶべきではないか。
3)農民意識研究では多くの場合、個々の意識のありかたと個々の経営の実情とのあいだの対応関係が主題になる。これを否定するつもりはないが、農家の共同・集合過程をも視野に入れる必要はないか。
--こうした点において、この論文は従来の自分の社会学に対する自己批判でもある。
フィールドワークの方法も、それまでとはちがっている。個別農家を訪問してインタビューするのではなく(それもおこなっているが)、農家が集まって話し合っている場に、私も出席する、ということである。すなわち、集合過程への参与である。
マイペース酪農交流会の集まりは、車座となって全員が発言する。話題はなんでもよい。家庭の状況について話す人もあれば、牧草のことを話す人もあり、農業と世界情勢についての考えを展開する人もある。その共通項は「わがこと」性にある。
私も当然のように発言を求められることになる。はじめのうちは出席しての感想などを話していたが、そのうち、「自分の暮らし」を核にしなければならないことに気づいて、仕事のことや生活のことを話すようになった。おそらく、酪農の世界ですすんでいる差異化と競争の原理の強化は、大学でも同様であり、お互いに翻訳しながら聞くことができたのだと思う。
夜に開かれていた時代には、仕事を早めに終わらせて夕方に釧路を発ち、交流会で夜中まで話し合って、戻ってくると夜中の2時3時といったことが、何度もあった。気がつくと、そこは自分の居場所のひとつにもなっていた。こうした語義での「日参」が、この論の背景となるフィールドワークだった。