相互行為の見えざる前提
「いろいろなことをやっている」ように見えると思いますが、私の研究課題を一言でまとめるとしたら・・・
最も広くは「経験に関する社会的な言説実践の分析と再帰可能性の探究」というようになるだろうと思います。
より特定的には、「相互行為を特殊歴史的に構造化している語られざる論理・前提の記述と、その変動可能性の探究」です。
で、その記述は事実観察の課題ですが、記述をおこなって社会的に可視化されれば、オルタナティブについても追求できることにもなります。
これは、いわゆる当為の問題でもありますが、ただの主義主張なのではなく、社会学の社会的プレゼンスや宛先という問題と関連した実践的な課題となります。
その観点から表現すると、『G.H.ミードの社会理論』で展望した、「語り・聞く、書き・読むといったコミュニケーション過程を通じた社会認識の伴走者としての社会学を再構想する」ことが、私の課題となるわけです。
『色覚差別と語りづらさの社会学』は、その展開です。
この課題を私は概括的に「声と耳の応答関係responsibility論」とも呼んでいます。
つまり、相互行為は、経験に関する「叙述-解釈の連鎖」とも言い換えられるわけですが、そこにおける「語り手(叙述)」-「聞き手=書き手(解釈と再話)」-「読み手(解釈の解釈)」の相互行為論、です。
情報科学と重ねるなら、経験の意味をめぐる発信-受信に関する質的な情報科学と新たなリテラシーの展望ということになります。
その事実分析で重要な主題は、声(発信=叙述)と耳(受信=解釈と再話)のあいだの非対称的な関係(権力作用)です。もっと端的に言えば、「解釈」を、聞く側の権力=「声を象ってしまう力」としてとらえるわけです。日常経験として言えば、私たちは「聞いてもらえないと語れない」わけです。あるいは、「今の私の言葉がなぜこう受け止められるの?」というソゴの経験の連続でもあります。
そうとらえたとき、「語る声」は、ただ「そこにあるもの」とは考えがたくなり、「いかなる耳との関係の中にあるのか」と詰めざるをえません。
もっといえば、単に「コミュニケーション」について追い求めるのではなく、「ディスコミュニケーション」について深く考える、ということになります。それこそが反省材料として貴重なものであるはず。
質的分析の方法論的な議論として言えば、これは「声の自生性」を前提してきた「自然主義的方法論」の克服ということになります。
リテラシーの観点から言えば、両者の弁証法的関係、つまり声が耳を刺激し、耳が声を促進するといった関係の展望にとっての耳の(インタビューや傾聴や聞き書きの)「応答=責任responsibility」が浮かび上がってきます。
これをテーマ別にし、いくぶんキャッチフレーズ的にまとめたのが、次の二つです(それぞれページを作成中)。
声と耳
食と農